日藝デザイン学科在学中より互いに刺激し合い、活躍されてきた、アートディレクター中村至男さんと、アートディレクター秋山具義さんの対談です。
当時の日藝デザイン学科の様子や広告デザイン、いまおふたりがやられている事、現代のデザイン教育についてなど、幅広くお聞かせいただきました。
前編後編の2本立てで、今回は前編をお送りします。
秋山がコンペでグランプリ受賞
あれはクラスの雰囲気をぐっと引き上げた
秋山:僕は、デッサンや平面構成をそこそこ勉強して、一浪で日藝に入りました。だけど、中村は現役で入学。しかも、夏期講習や冬期講習でしかデッサンを勉強していない。
中村:当時、知り合いが通っていた学校で三日ぐらい勉強しました。
秋山:それで合格してるんですよ。デッサンがすごくうまかったわけではなくて、頭がすごく良かったから勉強で入っている。
中村:受験勉強はしていたけど、それがどれほどのものかと言われるとわからないなあ。同じ日藝の放送学科、映画学科が第一希望だったけど、2次で落ちたよ(笑)。
秋山:僕らは同じクラスでした、というか当時は1クラス。
中村:40人のね。
秋山:みんなで旅行に行ったりもしたよね。
中村:僕は川崎のヤンキーばかりいるような高校から日藝に入りました。だから、すごい衝撃だったんです。文化的な雰囲気というのかな。これまでとはちょっと価値観の違う人たちが集っていた。でも僕はそれまでデッサンやデザインの勉強を全然していなかったので、それはそれで苦労しました。
秋山:1年生の時、タイポグラフィの授業を嫌だ嫌だと言っていたよね。2年生になったら転科試験を受けると言い続けていた。
中村:でも結局転科もかなわないし、ふてくされました。当時は何もできない劣等感から、いろんなことをやりました。廃材を使ったり、拾ってきたものをそのまま飾ったり。なんとかして手先の不器用さがバレないように、天気図みたいなものを気象庁からもらってきて、上から絵を描いたりしたこともありました。技術が未熟な学生にありがちなことなのだろうけれど。でもそんな時、衝撃的な事件が起きました。秋山が、当時「いづみや」(現「.Too」)という画材屋さんが主催していた「いづみやクレセントコンペ」というコンペティションでグランプリを受賞したんです。

秋山:大学2年生の春休みでした。そのときの審査員が葛西薫さん、奥村靫正さん、清水正己さん。
中村:そうそう。
秋山:北川一成さんや青木克憲さんが入賞するなか、僕が一番を取ってしまった。びっくりしましたね。
中村:そうだったね。
秋山:受賞したときに掲載された写真は、中村が撮ってくれたんだよね。

中村:当時の美術棟地下、彫刻があるところで2枚撮ったうちの1枚。これ、かっこいいよね。
秋山:今より20キロくらい痩せてる(笑)。
人に影響される、出会うっていう意味で、
大学はほんとに大きな場だったな
中村:あの頃、僕らは一緒に行動することも多かった。ちょうど、池袋西武の地下道に行くと浅葉克己さんや糸井重里さんの西武のポスターが貼ってあった時代です。
秋山:井上嗣也さんのパルコや、サイトウマコトさんのパルコのポスターも貼ってあったね。
中村:西武池袋線に乗ると、リアルに大貫卓也さんのとしまえんのポスターが貼ってあったり。秋山はどこで情報を手に入れてくるのか、ポスターを見ながら、あれがなんだ、これがなんだと教えてくれるんです。
秋山:ツイッターで知ってたからね(笑)。
中村:時空を超えてね(笑)。
当時から秋山はどこか大人みたいな雰囲気のあるひねくれた生徒で、外のことをよく知ってました。
秋山:あの頃からいろいろな展覧会にでかけて、違う大学の人たちとも知り合いになっていたから。青木克憲くんと知り合った影響も大きかったね。当時、青木くんが仲條正義さんのところでアルバイトしていて、僕もついて行って作品を見たり、見せてもらったりしていた。そのとき仲條さんに「具義は遅咲きだなぁ」って言われて、それはすごくショックだったな。
中村:めちゃくちゃ早咲きだったでしょ。
秋山:僕としてはがんばってる感覚があったけど、仲條さんから見たら「まだ咲いてないんだなぁ」と思ったんだよね。仲條さんは「デザインは50歳になってからだ」とか言ってたから、これからだなぁと思いました。
中村:その頃ふてくされていた僕にとって、当時、秋山が「クレセントコンペ」とかすごい賞をとって、それを目の当たりにしたことはすごく刺激になった。クラス全体の意識もぐんと高まるような雰囲気がありましたね。これを機に、クラスのほかの友だちもコンペに参加するようになって、入選とかするようになったんです。
秋山:中村のことでよく覚えているのは、3年の時かな。コンピューターグラフィックスの授業で楕円で絵を描く課題があった。そのときの中村はいきいきしてました。恐竜か何かを描いたんだよね。

中村:よく覚えてるね。
秋山:覚えてる、覚えてる。あの時の作風と今の作風、あまり変わっていないもんね。その後、中村がハジけたのが卒業してすぐ、1992年の「毎日デザイン賞」。としまえんの「感想文」っていう作品と講談社ブルーバックスの「人類が現れた日」。優秀賞と奨励賞を連続して2つ受賞しました。そのときの細い線は、多分そのコンピューターグラフィックスとの出会いで見つけたんじゃないかな。


中村:とにかく僕は本当に手先が不器用だった。ちょうど社会人になる頃ぐらいに、Macが入ってきて、コンピューターグラフィックスでデザインする時代がきたことは、すごくタイミングが良かったかもしれない。
今では大学の授業で何を学んだかあまり覚えてないけれど、あの頃、学内だけでなく、外の人と繋がって結果を出す秋山のような友達を見て、すごく意識が上がったのは確かだよ。
秋山:じゃ俺がいなかったら、中村は違うことやっていたかもしれないね。
中村:まあ、そうだね。
秋山:(笑)
中村:本当に、人に影響される、人に出会うっていう意味で、大学は大きな場だったなって思いますね。